武術家・甲野善紀さんが愛あふれるまなざしで見つめた日本の姿、日々思い考えるあれこれを綴ります。雑誌「Re:S」から続く人気連載です。
第16回

 2011年11月1日、木彫彩漆工芸職人、渡部誠一翁が、その76年の生涯を閉じられた。渡部翁は、その誠一という御名前の通り、誠一筋の生涯を歩まれた。その妥協のない制作態度は必然的に孤立化を余儀なくされ、作品を売ることも出来ず、私が初めてお会いした2002年の夏、家族を養うため道路工事にでも出たいけれど老齢で働き口がないという有様だった。

 私は、私のサイトの管理人から、その話と渡部翁の木彫りの作品群の写真を見せられ、その驚嘆すべき作品の数々に、直ぐ渡部翁にお会いすることにした。2002年7月15日、葉山でお会いし、その時翁が持参された木の葉の匙の、あまりの見事さに、直ぐにそれを譲っていただき、その足でこの渡部翁の作品の価値を理解されると思われるM女史にお目にかかって、この木ノ葉を渡し、その数日後、身体教育研究所の野口裕之先生にお目にかかった折、この木ノ葉の匙と、作品群の写真を見て頂いた。

 その時をキッカケに、野口裕之先生は渡部翁の作品を深く愛でられるようになり、身体教育研究所の稽古場は、渡部翁の花活け等がその風景として欠かせないものとなっていった。また、野口先生は渡部翁の作品の展覧会を稽古場で開かれるなどの援助を続けられ、会員の多くにその作品を紹介して渡部翁の生活が立ち行くよう最大限の協力を惜しまれなかった。

 そして8年、渡部翁は胃や心臓などにトラブルを抱えられながらも、野口裕之身体教育研究所々長という、おそらく生涯で最も自らの作品を評価理解された人物と出会い、全力で生き抜いてこられ、静かにその生涯を閉じられたのである。

 渡部翁の、その強烈な個性は、たとえば御両親とも会津出身で、幕末期に薩摩、長州から成る官軍に、会津藩が攻められ、悲劇的な事態となった事を何度も耳にされていたからだと思うが、話が幕末のことになると、目に涙を浮かべられ、いかに薩長の非道によって会津藩が酷い目に遭ったかを語られ、聞いている人ももらい泣きする事があったほどである。そのためであろう。渡部翁は現代においても行政機関は「薩長の手先」という思い込みが抜けず、そのためこうした機関の世話になることを極力避けられていた。

 とにかく、その一途さ、誠実さは、とても現代に生きている日本人とは思われないほどで、その素晴らしい木彫彩漆の作品に対して渡部翁がつけられた価値以上のものを、お渡ししようとしても容易に受け取られない。生活が楽でない事は分かっているので、何とかお渡ししようとして、次回の内金にとか、いろいろ理由を考え出して漸く受け取って頂いたりした。渡部翁が、御自身の作品に対して御自身が設定した以上の価格をつけられなかった理由は、質のいい手造りのものが異常に高価という訳ではなく、多くの人々の手に渡ることで、日本の工芸の文化を絶やさないようにしたいという思いもあったのだと思う。その事は、この後引用する渡部翁自身が書かれた論考と、私宛てに下さった私信によく表れているので、御関心のある方は読んで頂きたい。

 しかし、渡部翁が亡くなり、もうその作品が生み出されることがなくなった事で、それが決して渡部翁の望むところではないかもしれないが、平成の時代にまで生き残られていた事が奇蹟ともいえる木彫彩漆工芸職人、渡部誠一という人物の作品は、今後非常に高い評価を受けるようになると思う。

 渡部翁が亡くなった通夜の折、普通は滅多に葬儀には出られない身体教育研究所の野口裕之先生も来られ、私に「渡部先生の身体を観た時、『こんなにも親父に似た感じの人がいたのか』と、本当に驚いたのですよ。僕は親父が死ぬ時は、あまりそばにいられなかったので、まあ、その代わりという気持ちもあってね…」と、しみじみとした口調で私に語られた事は強く印象に残った。

 親父とは、むろん整体協会の創設者である野口晴哉先生の事であり、人の身体を手技のみで調整することにかけて「この人の右に出る者はいない」とまで謳われた天才である。この天才“野口晴哉”その人に「これほど似ている人がいたのか」とは、その余人の真似の出来ない卓絶した技術、人としてのセンス、情熱、責任感等に大変共通したものがあったという事だろう。

 このお話を伺って、私が取り持ったこの御二人の縁は、渡部誠一翁にとっても、野口裕之先生にとっても、きわめて必然性のあった事で、私のお節介も実は何かに使われての行為だった事をあらためて感じた。渡部翁にとっては、人生の最後の約8年間、恐らくはそれまでの人生の中で、御自身の作品を最も評価し、理解された方との出会いを果たされたのであったろうし、野口裕之先生にとっても、まさに我が意を得た工芸作家との出会いであったと同時に、父君である野口晴哉先生への語り得なかった思いが違う形で語り得ることが出来た出会いではなかったかと思う。

 あらためて人の縁の不思議さ、巡り合わせの絶妙さを感じずにはいられない。
 最後に心から渡部誠一翁の御冥福をお祈りしたい。

 ここに読者の方々の御参考に、渡部誠一翁のプロフィールと、渡部翁がある個展の折に書かれた論考、そして渡部翁から私に頂いた御手紙を引用紹介致します。

 渡部翁の作品の写真と、雑誌『MOKU』のインタビュー記事などの載ったサイトは、私の松聲館のサイトともリンクしておりますが、そのアドレスは次の通りです。

●渡部誠一氏ホームページ
http://www.takochu.com/watabe/
●雑誌『MOKU』インタビュー記事
http://www.mammo.tv/interview/archives/no201.html
●渡部誠一氏プロフィール
http://re-s.jp/watanabeseiichi

○渡部誠一氏による論考

 私はつねに、美を追求してきました。
 
 美には様々なものがありますが、形に現わすことの出来る美が、私の領域です。形になった美といえば、障子の格子の美しさなども素敵です。が、そのなかでも私は「生きている美」を追求してきました。

 美を具現する手段として必要な技術の練磨が毎日欠かすことの出来ないことは申し上げる迄もありません。その上でのことですが、本当の美とは「奇麗」を超えたところに在ることが分かりました。

 近代以降の日本では、芸術と工芸とが分離されて二大潮流となり、その隔ては今なお続いています。一つは、江戸時代に完璧の域に迄達した技術にどれだけ近づけるかを主旨とするもの。他の一つは、高度の技術の練磨は必要とせず芸術性の追求を主旨とするものです。

 私の目指している「生きている美」は、そのどちらにも見出すことができませんでした。私は、鍛えられた工芸の技術を駆使して、「奇麗」を超えようとしました。

 それは、思いがけずも、世の風潮に逆らうことであり、孤立の人生を歩むことになってしまいました。

 作家にとって一番大切なことは、「いい作品を作ること」ではありません。もっとも大切なのは、「生きること」です。そのとき、そのときを誠実に生きること、その積み重ねとしての毎日の暮らしを精一杯に生きることです。私が、人に対していつも思ったままを正直に申し上げるのも、それが相手に誠実に対することだと信ずるからです。作品というものは、作者の生活の中からしか生まれません。

 文化とは、それにまつわる「知識」ではなく、一人ひとりの「心」の問題だと思います。近頃は、人の「能力」というと名利獲得につながるものを指すようになってしまいました。然し、初夏の苗代を風が渡るのを見ることが出来、初冬に落葉が木枯らしに転ずる音が聞こえる人の感覚も、相手の身になって物事を考えることが出来る人の心だって、人の有つすばらしい能力のはずです。人の欲望に添ったものだけが商品価値あるものとする考え方が、大手を振って日本を、世界を歩いています。便利と物量獲得の美名の下、合理化の誤用を為し、人々は新幹線が出来て手にした余剰時間をゆとりにではなく、更なる経済競争に使ってしまいました。学校では、クラスの大半の子が参加して、たった一人の子に対してその人間性が破壊される迄の陰湿なイジメを加えることが、毎日、行なわれています。

 殺らなきゃ殺られる経済戦争。

 いったいそんなにも人をやっつけて人が幸せになれると思っているのでしょうか。自由にはそれに見合った強い自制心と倫理が必要でありますのに、どこ迄この無益な競争、いや戦争を続ける積りなのでしょう。

 この考え方は当然のことながら木工芸の分野をも侵しました。

 たとえば、漆器の工場による大量生産方式がそれです。

 化学塗料に5%だけ漆を加えて漆の臭を作り、それをスプレーガンで吹きつけるという手抜き法で、長い修練の必要がなく、安い賃金で働かせることの出来る主婦のパート労働者を集めて為されました。このモウカル方式は、「やる気と能力のある」若年の経営者によって考え出され、事業は大成功し、経済発展に貢献しました。遂には労賃の少ない外国(中国、台湾、フィリピンなど)で漆器を“造らせ”輸入する業者も現われました。日本人は喜んでこれを買い、使いました。

 そして、もはや不要とされた多くの職人達は、その職を失ったのです。

 江戸時代の一般庶民のお椀は、椀木地に直接漆を塗り、五回程塗り重ねたものです。漆の使用量を少なくする為、木地に目止めをしてから漆を塗る、などということをしない塗り方でありますから、その丈夫さはお椀がゆがんでも漆がハガレルことなどありません。5%の漆を混ぜた化学塗料をスプレーガンで吹きつけなくても、一般庶民は出費して比較的安価なお椀を使用していたのです。

 かくして我が国には使い捨てなどという思想が 受け入れられ、人々の生活から、日用のお椀を大切に扱いながら食に感謝し、うるおいのある感覚を得ていた日常は失われてしまいました。そして職人の多くは消え、跡継ぎも又、他職業を望み、この国から大切なものが失われてしまいました。

 時流に逆らうことになってしまった私の作品は、市場には流通せず、何も無ければ何も無く、この私も又、この社会から消されてしまう一人なのでありますが、人々の御力添えと神仏の御加護により七十歳の今日迄生命長らえ仕事を続けることが出来ましたことは深く深く我が血肉より感謝するところであります。

 残念ながら、合理化すべしという思潮が日本を覆って久しく、今では漆の魅力を本当に伝えている工芸品は実に実に少なくなってしまいました。

 たとえば漆塗りでは、漆を塗っては研ぐということを何度も繰り返しますが、塗った漆が下層の三割程しか残らないまでに研ぎあげなくては、漆の本来の強さと美しさは表れてきません。しかし、それではいかにも不経済です。というわけで、ここでも又、妙な合理化が顔を出し手抜き工事が行われます。それが普通になっているために、漆塗りとはそういうものだと思っている方も多いようです。又、漆自体も、上中下の三段階の品質がありますが、「合理化志向」では、もちろん最下等使用が採用となります。

 私は、かつての日本で育まれた文化を愛しています。それゆえに現在の日本社会には、大きな危惧を抱いています。

 合理化という言葉のもと一人ひとりの心などは無視するのが当然という風潮が強まる一方で、思いやりや心のゆとりが大事だなどといった空ろなキャッチフレーズが大安売りされている今日の社会は、一人ひとりが感じ考えるということを拒絶した人々によって生み出されたものでしょう。

 日々をいかに生きているかということと創作活動とは、まったくひとつのことであり、切り離すことはできないのです。

 だからといって、「作品を見れば作家がわかる」などとは、おっしゃらないでください。私は、私を表現するために作品を作っているわけではありません。私は、美を追求している者です。自分を知っていただきたくて作品を作っているわけではありません。むしろ美を追求するうえでは、自分を出すということは、極力抑えねばなりません。その抑えるということにこそ、もっとも力を傾けねばならないのです。

 これ以上でも以下でもいけないという、ぎりぎりの臨界で鑿を止めること。それが木彫のすべてです。

 必要にして十分な、ぎりぎりの一点。そこは、近づけば近づくほどに、遠く見えてくる場所です。より遠くまで見えるようになるからです。これまでの五十二年間の追求は、今日の制作のための基礎であったとも思われてきます。今なお、私はその追求の途上にあり、これからもありつづけるでしょう。

 そうありつづけるには、ひとときひとときを誠実に生きねばなりません。そうしなければ、求めるぎりぎりの一点が見えなくなってしまいます。

 ですが、私は、そこを見てほしいというつもりはありません。お一人お一人が感じられたそのままが、その作品なのです。いろいろと申しましたが、作者の言葉とて、作品には不要です。願わくは、ただ作品そのものを感じ、味わっていただけましたら幸いです。

○渡部誠一氏からの手紙

前略ごめん下さい。

 早速の御送金有難うございました。両方ともいただきました。封書の方も無事受納いたしました。お忙しい先生に御面倒をおかけ申し上げ申しわけございませんと共に感謝申し上げて居ります。
 本日、領収証をお送り申し上げます。

 扨(さて)、封書の中に「次回作品の手付金として一万円也同封」とあり、又「木の葉五枚注文」とございましたが、多分と思い、仕事場の大戸棚を捜しましたところ、案の定桜の葉五枚が出て参りました。この五枚はいつものと異なり、美が前面に出ているものなので、一時封印してあったものでございます。
 何事によらず、私は、私はと前面に出るのは絶対に過ぎてはならぬものでございますが、美に於いても又然りでありまして「美しいでしょう」などと主張するのは存在の品格を失います。このことは常に何十年も心してきて居りますので、「美が前面に出ている」と申しましても過ぎては居らぬのでございますが、いつものものとは変って居ります故、しまって居いたものでございます。
 この五枚、お送り申し上げますので、御覧の上御気に召されましたら御買い上げ下さいますよう。(なほ、いつものことながら、この桜葉のモデルは会津の鶴ヶ城より採取したものでございます。単なる思い入れではなく、この桜葉の中には珠玉の落葉が混って居りますので、会津行の折には必ず拾いに行きます。既に申し上げたかも知れませんが、自然物と申しますものは、「必要にして充分」以外のものは身につけて居りません。必要充分でのみ成り立って居ります。人間や人間に近づいた脳の大きさを有つ生物は、その脳の大きさの欠陥として「余計なもの」を欲しがります。と私は思い居ります。その「余計なもの」が人間を醜くい生物にしてしまいます。思想が違うからと人間を殺したり、えばってみたり、とにかく馬鹿々々しいことをして不幸をもたらします。
 桜(に限らず)の木も又自然物であり(そめいよしのは人間が無理に造ったきらいはございますが)木全体として必要と充分を為して居ります。そしてこれは驚異なのでありますが、自然物は必要充分以外のものは身につけて居らぬのに、何と必ず全体が美を成して居ります。桜も又然りであります。が、それはあくまで「全体で」であります。
 葉一枚一枚が美ではないのです。あく迄全体で美を形成しています。
したがいまして落葉一枚一枚を見ます時、その一枚が美を形成していることはめったにないのであります。そんな中にあって会津鶴ヶ城跡の桜花、桜の落葉は、一枚にこよなく美を形成しているものが多く在るのです。これは一つの驚異であります。(時に他人様が私に外国の美しく紅葉した桜葉を旅行のおみやげにと下さることがあります。それはさすがに美しいものです。が、単に美しいというだけのものです。本当に美しいものというのは、単にではなく奥深いものです。一種の品格を具えて居るものです)
 その落葉をモデルに私は木の葉を造ります。勿論木ノ葉(本物はあく迄モデルであります。私の物は木材であります。木材をもって造形いたすのでありますから、落葉そのものの模刻ではありません。それでも人間の脳を使った勝手な創作ではなく、品格有な美を有するモデルを私は必要とするのです)

 小生が時々先生にこのようなことを申し上げますが、申し上げる迄もなく、よく世の作家先生が為さるような、己の作品に附加価値をつけるべく行う弁説ではございませんので、御用心なさいます要はございません。隙きだらけの構えをもっておききいただけたら有難く思います。(後略)

第15回

 この「ほころび」の野元浩二氏特集も4回目になってしまった。当初から2回はやろうと思っていたのが3回となり、編集部からの要望もあって4回目となった。
 我々が生きている世の中というのは、やはり時に思いがけないことが起こるものである。この野元氏の特集も思いがけない東日本大震災、そして福島第一原子力発電所の事故がなければ3回目で終っていたと思う。
 しかし、かつて玄海原子力発電所でも働いていたという経験を持たれている野元氏は、福島の原発があのような人類の歴史上でもチェルノブイリと並ぶ、いやそれ以上ともいえる事故を起こし、とてもじっとしてはいられず、凄まじい勢いで携帯メールを打ち続けられていた。
 その内容を是非「ほころび」にという編集部からの強い要望もあり、今回4回目の「ほころび」登場となったのである。
 野元氏の原稿の最初にも書いてあるが、今年の2月に山口県で「鳥インフルエンザの拡散を防ぐため」という理由で、白鳥が大量に殺処分された時、私も実に嫌な感じを受けたのである。また、宮崎県では火山も吹き、日本の神話の舞台となっているところが多いこの土地に口蹄疫と噴火では、「これはちょっと大変な事になりそうだ」と思った。そして3月11日である。これで、ずっと気になっていた事が一山越えたかというと、そうではなくて、まだいくつかある山場の最初の一山を越えたかどうかといったところだと思う。
 それにしても福島第一原子力発電所の事故は凄まじい。しかも次第に明らかになったところによれば、原発は当初想定外の津波により外部電源が失われて事故に至ったと言われていたが、1号機に関しては、近くの民家も壊れていないほどの地震で冷却水の配管が外れたか何かで、冷却水が流失していた事が明らかになった。
 地震が起きた時、1号機で働いていた人達は、地震で大量の水が溢れ出てきたので、慌てて逃げたそうだから、津波が来る前に冷却水が失われていたという事になる。冷却水が流失してしまっていたら、いくら電源が入ってもどうしようもない。この時点でメルトダウンは必至だったという事になるが、そんな明確な事実も東京電力は報告しなかったという事である。
 現在8月末でも具体的な収束は見えておらず、毎日毎日福島原発は今なお放射性物質を大量に大気中に放出している。事ここに至ると、さすがに事故当初はまだ原発推進に理解を示していた識者も、かなり脱原発に変わってきているようだが、ここでいま一度、この野元氏のメールを読まれて原子力発電について多くの方々に考えて頂きたい。

————–〈東日本大震災と原発事故の予兆!〉
甲野先生! 今年(平成23年)の2月11日に、あっしが先生に送ったメールっす!

ほんの今、昼飯、食いながら、なにげにテレビを見ていたら、山口県で鳥インフルエンザの拡散を防ぐ為とか訳わからん理由で公園の白鳥が、大量に殺されていました! 決めた奴が、死ね! 怒りで爪が、手の平に刺さってしまいやした! まったく人間って奴は!
アホ野元!

口蹄疫で家畜をぶっ殺しまくったのを含め、この胸クソ悪い人間のエゴには、甲野先生、大変お怒りに! ちゅうか、ブチ切れモードになられて、ツイッターも燃え上がって大反響だったんで、よく覚えとらすでしょ! あの後、今までに感じた事も無いような、どす黒い胸騒ぎが続きやした! そいから、甲野先生は、今年前半に、とてつもない事が起こると周りの人達にも常々言っておられやしたが、それが当たっちまいやしたね! 3月11日の東日本大震災と恐怖の原発事故でやんす! あれから、百日以上の月日が、たちましたが、あっしなりの意見と、これからの予想を項目ごとにわけてコメントしやす! (非常事っちゅうのに、ところどころジョークが、入っていたりして不謹慎ですが、ジョークでも言わないと怒りと悲しみで心身が破壊されそうなんで、お許しくだせえ!)

〈非難ごうごう!〉→3月12日に福島第一原発についてのメールを甲野先生に送ろうとした矢先に一号機が、水素爆発して、その夜に例のメールを送ったんすが、このメール内容を武術仲間をはじめとする、いろんな人に送ったところ、そのうちの数人から、「ブログに載せてもいいですか?」と連絡が、入ったもんで、「どんぞ! ご自由によかですばい!」とOKしたら、すごい反響だったらしく(らしく! と言うのは、あっしは、インターネットやツイッターは、必要な時は、見るくせに、基本的には、うっとおしいから、嫌いで、やってないんす! よって股聞きや、股メールに、なっちまってるんすが!)内容は、「私は原子力について知識も興味も全く無かったのですが、知るきっかけになりました…」とか「原発が、こんなに危険なものとは知りませんでした!」とか、お誉めの言葉もあったんすが、それに数倍する「この人、頭おかしいんじゃないですか? こんなことは、科学的にありえない!」とか「こんなデマを流す無神経なバカが、いるから、パニックになるんだ!…」とか非難ごうごうの返信が大量に来て、ブログが、えれえことになったらしいっす! 3月13日朝に甲野先生に送った時のメールを、あえて原文のまま→→→

甲野先生! 阪神大震災の250倍のエネルギーと言われている今回の地震の被害は、まさに想像を絶するものですが、あっしが、知っている限りの武術関係者の方々は、全員無事が、確認できました(震源地に近い宮城県の佐藤さん一家(※Re:S10号掲載、宮城県七ヶ宿の佐藤家)、ほんと無事でよかったっす!)しかし、こんなことを言ったら津波の被害者の方々から殴られそうですが、はるさん(※甲野さんのご子息、甲野陽紀さん)に送ったメールにも書いてたんですが、一番恐れていた原子力発電所の事故が、起こってしまいやした! あっしは、郵便局に入る前は、発電所のタービン関係の仕事をやっていて玄海原子力発電所で仕事をしたことが、ありますし、絵を描いたりなんだり、長崎の原爆被爆者の方々と親しいっちゅうこともあり、手前みそでは、ありやすが、原子炉や放射能の恐ろしさについては、かなり勉強しましたし、被爆者の方々の悲惨さを実際に見たり聞いたりして、詳しいつもりです! なぜ、給料のいい玄海原子力発電所を辞めたかと言うと、原子炉建屋内に入る前日に腕をケガしたために作業できなくなったのと(なんて幸運なケガをしたんだろう! と今でも思うっす! なぜなら、その時に働いていた同僚の多くが、ガンや白血病で亡くなられてるからです!)そいから、原子力委員会に突っ込んだ質問をしたときに、うやむやにしか答えないし、あまりにバカばかりなので頭にきて辞めやした! この世で原子力委員会やその関係者ほど、たちの悪い大嘘つきのバカ集団は、ありやせん(農薬関係者といい、なんで、こいつらカスしかいないんっすかね?)今から書く事は、ほんと心底恐ろしい事で、まるで脅してるみたいですが、事実なんで冷静に読んでください!

広島型原爆、5百発分!(実際は、3千発分!)これが、1986年、チェルノブイリ原子力発電所の事故の時に放出された放射能総量っすが、(今も放出され続けている!)福島の原発は、チェルノブイリ原発が子供みたいに感じる、更に、ふたまわりは、でかい規模の恐ろしい原子炉でやんすが、気になるのは、原子炉内のウランの核分裂によって作りだされる死の灰のヨウ素131とセシウム137が、検出されたことです! ヨウ素131は、甲状腺にたまりガンを発生させるやっかいな奴で半減期が(毒性が、半分になる期間と考えてください! 例えば8日だとすると更に8日たてば半分! 更に8日たてば半分ってことですが、怖いのは、たとえ半減期の短い死の灰でも遺伝子を傷つけることです!)8日! セシウム137は、主に筋肉や子宮にたまりガンを発生させる奴で半減期が、長く30年! 政府は、まだ、発表してませんが、更に危険なストロンチウム90とプルトニウム239も放出されているのは、確実です! ストロンチウム90は、骨にたまり骨肉腫を発生させ半減期は、28年!
人類が、造りだした最悪の猛毒、プルトニウムにいたっては、100万分の1グラム(英文の最後にうつピリオドのインクの16分の1!)で確実に肺ガン、子宮ガンを発生させ、半減期は、なんと2万4千年! 政府は、半径20キロ以内の住民は、避難! などと脳天気な事を言ってやすが、少なくとも半径3百キロは(風向きによってかわりやすが!)危険です!とりあえず、関東、東北地方では、水は絶対に浄水器を通して飲むこと!関東以南で採れた食材しか使わぬこと! 使わざるをえない場合は、よく水洗いすること! 肉は、骨の近くは、たべぬこと!(甲野先生は、肉をほとんど食べないのでよかったっす! ほんと肉類は、死の灰が、生体内濃縮されるので危険っす!)家の隙間は、ガムテープなどで目張りすること! 外出は、しないが、いいっすが、そうもいかないでしょうから、外出する場合は、マスクをつけ、表面が、ツルッっとした長袖の服を着て、帽子やガウンを被り(髪の毛に死の灰が、着くとなかなか取れない!)あとは超花粉症って感じで!(死の灰は、杉花粉の1兆倍以上!いや無限に危険ですが!)それにしても原子炉が完全にメルトダウンした場合、日本どころか、全地球的規模で深刻な放射能汚染になりますんで、最悪、メルトダウンだけは、避けなければいかんですね! やり方としては、まず、水で冷却し(海水を使うようですが、海水の中のナトリウムなどの成分で恐ろしい放射成物質が、生成されやすが!)、ホウ素やカドミウムなどの中性子を吸収する材料で原子炉を覆うしかないでしょう! これでも、かなりの放射能が、放出されるでしょうが、背に腹は、かえられやせん! しかし、原子力委員会や電力会社は、(言っている状況や数値は、全くのでたらめでやんす! まあ、百歩ゆずって考えれば、パニックを防ぐためでしょうが!)万死に値しますが、現場の作業員の方々は、命懸け! と言うよりも命を捨てて(暴力団の組事務所に殴り込みに行くよりも千倍は、怖いでしょう!)作業しているのですから、ただただ頭が、下がります! 人間の、やりたい放題のツケが、まわってきた感じですが、今は、とにかくやれることをやるしかありません!

←←っちゅうメールだったんすが、日がたつにつれ、この内容通りになってきたもんだから大変な事に!(地震規模数値が、250倍から1000倍に変わったり、放射能雨に注意! とかが、抜け落ちたりしてやすが!)それまで、クソミソ非難されていたのが、ピタリと止み!(後日、ツイッターやブログに詳しい友人が言うには、「非難文の内容からして、どうも原子力推進派連中が、自分達に都合の悪い意見を攻撃しているようだぜ!」ってことでやんした!)それに代わって物凄い数の意見や相談メール(股メールを含めると一ヶ月で二千件以上!)や電話が来て、中には、切羽詰まった妊婦さんや乳幼児を抱えている女性から泣きながらの電話が、あったりして、ほんと身につまされる思いで、気合いを入れて答えました! そいから、どうも、あっしを予言者か、なんかと勘違いしたのか、霊能力者や某宗教団体から幹部になりませんか?と電話が、かかってきたのには、まいりやした(笑)! そいやかんやで3月、4月は、ほとんど布団に入る事が無く、ぐっすり寝た記憶が、ありやせん! そのせいか、目の下のクマが、すごかったっす! しかし、自分自身も放射能への恐怖と、なんとかせにゃならんっちゅう防衛本能からか、極限まで追い詰められた心身が特殊な状態になっていて、異常に感が冴え、相手の心が、透けて見えるし、なぜか怪力になっていて、郵便局の若い職員が、バイクを転倒させてグニャリと曲げてしまったハンドルとステップを素手で戻してしまった時は、みんな驚きの声をあげやした! そん時、ふと、雀鬼、桜井会長の顔が浮かんできて、この感覚の延長線上の遥か先に桜井会長は、おられるんやなーっ!と感じやした!
 しかし、六月に入ってから、この状態に慣れて危機感が薄れてきたのか、心身が普通になってきてるようっす! でも喉元過ぎれば、熱さを忘れるじゃいかんですね! 事態は、メルトダウンより深刻なメルトスルー(原子炉には、それなりに詳しいつもりでしたが、初めて聞く用語っす!)になっちまっているし、大量の汚染水は、たまる一方だし! なにしろ、今現在、約11万トンの汚染水に混ざっている放射性物質だけでも37京ベクレル!(億でも兆でもないっすよ!)とのことっすが、あっしの計算では更に一桁上だと思いやす! なぜなら、ぶっ壊れた三つの原子炉の放射能総量は、約、5垓(がい←ついにこの桁が!)6千京ベクレルと試算されてやすが、そのⅠパーセント以下でも約5百京ベクレルだからでやんす! 以前、Ⅰ8万ベクレルのコバルト60が、あれば一つの町を、壊滅させられる! っちゅう話を聞いたことが、あるんすが、この計算には、更に大量の放射能総量の4号機プールの燃料棒は、入ってないんすから、気が遠くなりやす! イッコーさんじゃないっすが、「どんだけーっ!」って叫びたくなりやすよ!
 ただ、一つの救いは、ある理論物理学者が、「溶けた燃料棒の中の比重の重いプルトニウム239が、一カ所に集まり臨界量を超え核爆発を起こす恐れが、ある!」と言っていたのが、外れたことっす! しかし、これは、1957年に旧ソ連の核兵器工場で実際におきた事で、この時は、一つの街では無く、一つの地方(!)が、この世から消えて無くなったのでやんす! なにしろ、長崎に投下された原爆で使われたプルトニウム239(広島は、ウラン235)が、たったの8キログラムで、あの大被害と後遺症で苦しむ膨大な被爆者をだしたんですから! 福島原発のプルトニウムは、トン単位! 否定する科学者が、多いんでやんすが、東電子飼いのバカばかりのドブネズミ御用学者どもの言うことは、(ドブネズミに悪い!)デタラメばかりなんで信用できんし、臨界しないことを祈るしかありやせん!(なにしろ放射線が、強すぎて調べようが、ないんすから!)
 あっ、バカと言えば、ほんと、東電、原子力保安院、原子力安全委員会をはじめ、さっき言った、ドブネズミ以下の御用学者に、スポンサーにしっぽをふるだけのマスコミや目先の利益しか考えてない推進派のクソ野郎どもの中に、いっその事、物凄く頭が良くて、ずる賢こい、本物の悪党が居れば、ある意味、安心なんすが、奴ら先を見越せない、ただのバカばかりだからマジで怖いっす! 次は、実際に現場でやりあった突っ込んだ生の話をしやすんで、甲野先生! アホなあっしの、たわ言をまた、聞いてくだせえ!
アホ野元!

第14回

前回、前々回共に、この「ほころび」は野元浩二氏特集となり、今回は別の事を書こうと思っていたのだが、またまた野元氏が思いもかけず警察から表彰されるような人助けを行なわれ、その事に私も関わったので今回も予定を変更し、野元氏特集の第三弾を載せることにした。
事の起こりは今年2011年2月の10日の夜に、私のところに届いた次のメールである。

あっしの家の前の山で行方不明になった老人を捜索中です!(バイクの腕を買われて!)居てくれーっ! ってところです!

そこで私は考えた。「野元さんには人間離れした野生動物のような勘がある。それに、きっと私に相談した事がキッカケで道に迷った人を発見出来れば、きっとまた大感激、大喜びされるに違いない。ここはひとつ、この野元さんの『もの喜びしたい』という強烈な願いを引き出そう」。それで私は、もし自分ならどうするかと少し考えて、次のメールを送ったのである。

心を鎮めて、その人を、思い浮かべ、三脈診て、わずかに変化する方向捜すといいでしょう。

そして、これが大当たりとなり、野元氏から感激の電話が、そして後に以下のメールが届いたのである。

甲野先生! ほんと、山で行方不明になった、じいさんが、見つかって、よかったでやんす! こんなに、嬉しいことは、無いっす! 事のいきさつを説明すれば、今日は仕事が6時に終わり、さあ、道場に行くかーっ! って時に、近所の人から、あっしん家の前の山(将冠岳、標高435メートル、西海国立公園にかかっている山で、地元では、断崖絶壁とシロヘビ伝説と武者の亡霊で知られているっす!)で単独で登山した老人が、行方不明になったので、山とバイクとサバイバルに強い(誉め過ぎっちゅうねん! 自分で言やあ世話ない!)あっしに協力してくれーっ! と連絡が! 最初は、なんのこっちゃ?だったんすが、よく聞いてみると、なんでも、同じ町内に住むOさんって方(あまり、面識は、無い人です!)の奥さんの父親で、89才になるT、Hさんって名の、じいさんが(若い時から登山が趣味らしいっす!)今日の(1月26日)朝から一人で将冠岳に登ったまま、夕方4時になっても下山しないので心配でケイタイに電話したところ「登山道に迷い、自分が、今どこに居るかわからなくなった!」(家は、佐賀県で佐世保の山には、土地勘が、無いってのが高齢以上に、ヤバかった!)ってんで、ご家族や親戚の方々が、山に捜しに行ったみたいなんすけど(この時点では、みなさんも気楽に考えてたみたいで薄着の上にサンダル履きの人も!)しかし、この時期、5時をすぎると山の中は急速に気温が下がるし、真っ暗闇になるんで、だんだん危機感が、わいてきて、世間体が…! なんて、レベルじや無くなり警察や近所の人に連絡されたみたいでやんす! それで、あっしにも白羽の矢が立ったみたいっす!

あっしはバイクで、ぶっ飛ばして、家にも寄らずに山に直行して7時前位に当着! しかし、山中は、明かりも無く、まさに真の闇! それに、来るはずの警察のパトカーは、来ないし、あっしは、じれったかったんで、一人で山の中に入ろうとしたのでやんすが、近所の先輩が「浩二! 待っとけ! 下手に動くと逆に危ないし、訳わからなくなるんで警察が、着いてから、みんなで手分けして捜そうで!」と言ったので、なるほど確かに一理ある! と思いました! じいさんのご家族のケイタイに警官から「みなさん、その場に居て下さい!」(この時は、八人位!)って指示が入りやした! しかし、待っててもパトカーの来る気配も無く、??? って感じでした! 連絡したのが、気が動転してる、ご家族だったので、もしや? って予感がしたので、あっしが、警察に直接電話したら、案の定、10キロ程離れた全然違う場所を捜していやした!(110番とパトカーの連絡の、やり取りにミスが、あったらしく、吉岡町にある金比羅様! が、横尾町の金比羅神社! ってことに、なっていやした!まあ、連絡した、ご家族も気が動転してたであろうから、どちらも責められやせんが!)それで、あっしが、わかりやすい場所として吉岡町のコンビニを指示して、バイクで山中から迎えにいったら、オロオロした、警官6人が、パトカー3台で、やってきたのは、よかったんすが、あっしの住所や電話番号や遭難者との関係とかを、しつこく聞くばかりなんで、イラッ! としたあっしが、「そんなんは、後でいいじゃないですか! 先ず、地図やカーナビでは、わかりにくい現場の登山道入り口に案内しますんで、ついて来て下さい!」と言ったら「いえっ! まず本部に状況を説明しなければ、ならないので!」と警察が、言った時点で、あっしはブチ切れ、つい「バカか、わいたちゃ! 今、こうしてる間にも、じいさんの体力は、寒さに奪われよるとぞ! 能書きは、よかけん着いてこんか! この石頭どんが!」と言ったら、向こうも、ムッ! としたみたいで険悪ムードに! それを無視してバイクを発進させたら、パトカーが、ついてきて、現場まで到着! でも、みんな待ちくたびれて、警官とギクシャクするし、更にじいさんのケイタイは、電池が切れたみたいで連絡が取れず家族の方々は、泣きだすし、益々やばい事に!

しかし、そうこうしてるうちに警察にNTTドコモから「GPSによるとTさんは、半径1キロ以内にいるのは間違いありません! ただし細かい位置までは、掴めません!」との連絡が入り、この時は、おおっ、さすが警察! と感心!(ケイタイが、GPS契約してなくても、イザッ!って時は、捜せるみたいですよ!)更に応援の警官や町民の人達が来たので捜索隊は、20人位に! さらにあっしが、友達に連絡して、いざとなったら各町の消防団も協力ってことに! それから2、3人で、一組になって捜索開始! でも、あっしだけは、バイクなんで単独行動!〔いったん家に帰り、ナイフ! 小型の鉈! ロープ! タオル! ライト! ホイッスル(疲れはてた時は大声を出すよりも五分の一程度のエネルギー消費で済む!)腹減ってたのでバナナ! サバイバルアルミ蒸着シート(ポケットに軽く入る大きさながら、いざって時は、毛布以上の保温効果)をザックに突っ込み、そいから、軍手! 長靴! 服装は、バイクウェアのままでバッチリ!〕しかし、半径1キロ以内と言うと、たいしたこと無いみたいでやんすが、山の地形は、平面では無くて起伏が激しいので、かなりの面積になりやす!(ちょうど人間の小腸を平面に引き延ばすと表面積は、サッカー場くらいは、あるっちゅうのと同じっす!)いざ、捜す! となると、耳も遠く、あまり大きな声も出せない、じいさんを捜すのはハンパ無く難しいみたいで、テキトー野郎のあっしですが、なんかヤバい感じで捜索真っ只中に! 困った時の神頼み! ならぬ甲野先生頼み! が、閃き(先生は、ドラえもんか?)なにげにメールしたら、あの返信メールが!《心を鎮めて、その人を、思い浮かべ、三脈診て、わずかに変化する方向捜すといいでしょう》と!

バイクのエンジンを切り、ご家族に聞いたじいさんのイメージを心に浮かべ、心臓、首筋、手首の三脈を診たら、最初、地形から予想した南西の方角とは逆の南東の方角を向けた時だけ、微妙な変化が!(脈が、ズレるっちゅうよりも、なんか胸の中にクーンと来る感じでした! まあ、たまたまだったのかもしれませんが!)そいで、その方向にバイクで行けるとこまで行って山中に入り(9時半頃)「Tさーん!」って、あらんかぎりの大声で叫んだら、猪が、ビックリしたみたいでバキバキと枯れ竹を折って走る音が!それから更に山中に入り、五回ばっかり叫んだ時に、なんか唸り声が、聞こえたような気がしたんで、その方向に木の葉や竹やぶを掻き分け入り、また「Tさーん!」って叫んだら「お〜い!」って声が!次に「Tさんやーっ?」って叫んだら、「はーい!」って声が!そいから懐中電灯代わりに持って来た自転車のハンディライトを点滅にして「ライト見えるやーっ?」って叫んだら、すぐ近くに見えるってんで、ガレ場を駆け上がったところの木の下でTさんを発見! 靴を片方無くしていて、薄いヤッケだけの薄着だったんで、ブルブル震えてやした! 名前確認したらT、Hさん本人でした!(登山道でも獣道でもない、鬱蒼とした所で、89才になる、じいさんが、よくもまあ、こんな所へ来れたな?って思える場所でした!)あっしが、「ウオーッ!じいさんを見つけたぞーっ!」って雄叫びをあげたら警官の一人が、気付いてくれて、みんなに無線やケイタイで連絡してくれやした! 最初は、あっし一人でかついでたんすが、地面が、ガレ場の急傾斜で滑りやすいのと、低い位置に木の枝が、多く、下手すると、じいさんに怪我を、させそうだったんでオーソドックスに肩に手をかけて下山してましたが、しばらくするとバンバン応援が、集まってきて人海戦術で運びました!

しかし、自分自身で驚いた事が、三つありやした! 1番すごかったのが、マグレかもしれませんが、三脈で位置が、特定できたこと! 次にイメージしたTさんの姿と実際の本人が、寸分違わず、同じだったこと! もう一つは、登山道から急傾斜を百数十メートルばかり登った所で発見したのですが、そこまでの登りを声を聞いてからほんの数分で忍者のように行けたのに、帰りは、登山道に出るまでに30分以上かかったことです(もちろん、Tさんをゆっくりしか運べないし、多人数って事もあったのですが、それを計算に入れてもワープしたみたいな不思議な感覚です! これぞ、火事場のバカ器用! そいから、みんなの集まってるとこに着いたのですが、さっきまでの警官との険悪ムードが嘘みたいに一転して、お互い、喜びモードで和気あいあいになり、ギャグやジョークが、飛び出す始末で、実にいい雰囲気になりました! あっしが、警察連中に「おいば、泥棒で捕まえても逃がさんばばい!」と言ったら警官の一人が「おお!まかせんね!」と言ったので、ドッと笑いが、起きやした! そいから、じいさんの家族の方々が、あっしの手を握って「あなたは、命の恩人です! どんな、御礼をすればいいのでしょうか?」と言われたので、「じゃあキャバクラに連れてってーっ!」とジョークで言ったら、家族、親戚で、なにやら、ぼそぼそと話してると思ったらマジな顔で、「わかりました!」って言われたのには、まいりやした! もちろん、あっしは、ジョーク、ジョーク! と言いました! あっ、そいから、見つけるのが、あと数分遅かったら佐世保警察署管内と近辺の警察官を総動員する予定やったらしかです! しかし、昔は、パトカーから追い掛けられていた立場のあっしが、警察から、こんなに誉められたのは、生まれて初めてで妙な気分です! しかし、ほんと、じいさんを見つけた時は、嬉しかった! 多分宝くじで三億円当たっても、ここまで嬉しくは、無いでやんしょ! もちろん、あっし一人の手柄では無く、冷静な判断や指示を与えてくれたSさんをはじめとする近所や町内の方々! そいから最初は、腹が、立ちやしたが、よくやってくれた警察(今、冷静になって考えれば、ほんと大変な仕事だと思いやす!)そいから、なんと言っても、甲野先生のアドバイスのおかげでやんす!ありがとうございやした!
アホ野元!

その後、野元氏は、この人命救助で警察から表彰されることになったのだが、およそ晴れの舞台とは縁がなかったという野元氏は、最初は辞退したいと思われていたようだが、周囲からの説得もあり、ようやく意を決したのか次のメールが送られてきた。

甲野先生! 昨日のメールで言いましたが、あっしだけが、警察から表彰されるのは、なんとも心苦しくてモヤモヤするんで、ほんの今さっき、一緒に捜索した近所の人の家に、そのむねを伝えに行ったら、「なにバカな事、言いよると! あんときコウちゃんの見つけとらんやったら、おじいさんの命に関わっとったし、家族は、もちろん、見つける側も、たまらんやったとやけん、堂々ともらわんね! 表彰状よりも逮捕状の似合うコウちゃん(あっしは、近所の人や同級生からは、浩二かコウちゃんかノモジと呼ばれているっす!)が、もらうとは、いいことやん(おい、おい!)こんなことは、滅多にないことやし、町内にとってもよかことやけん、みんなの代表で、もろうとって!」とえらい祝福してくれやした! 嫁さんや娘達からも、良かことしたとやけん素直に、もろとかんね!と言ってくれたんで、(やっぱ家族ってのは、いいっすね!)そうしますわい! こうなったら今からは、この体験をミツバチ、農業、農薬問題の事、それから武術や昔の人の素晴らしさに繋げて行くようにしますわい!(大袈裟すぎっすね!)
アホ野元!

そして、その後授賞式の様子を、次のようにメールして下さった。

表彰式終わりやした! 30分位で終わる予定だったんすが、山中の行方不明者をどうして発見したかの取材から、甲野先生と武術の話になりやして! 警察署長、広報の警官、婦人警官、新聞記者とも大変興味をもったみたいで、めちゃくちゃ話が、盛り上がり2時間近くになっちまいやした! 甲野先生のビデオ4本を持ってましたが、全部見せてほしいと頼まれやしたんで……中略……そいから、ミツバチの話をして終了したんすがそのあと、別の部屋に呼ばれ、早速、警察署管内の行方不明者の捜査依頼が、来ました! 出来る限りの協力は、やったります! おっと! 夜勤の仕事に行かにゃあ、なりやせん! また後で!
アホ野元!

これによると、どうやら授賞式は野元氏一流の方法で仕切ってしまったらしい。縁があったら私もこの佐世保警察の方々に会うことになりそうだ。
とにかく50歳を過ぎて少年期の好奇心といたずら心を持ち続け、大いに人々の為に尽くされている野元氏には、これからいよいよ本格的に活動して頂かなければならないと思うのは一人私ばかりではないと思う。

今回をもって全3回に亘った、この「ほころび」での“野元浩二特集”は一応終了の予定であったが、3月11日の東日本大震災、そして福島第一原子力発電所の事故が起こった。それを受けて、かつて九州の玄海原子力発電所で働き、(原子力関係上層部の、あまりの、いいかげんさに嫌気がさし、喧嘩して辞めたそうであるが)原発の危険性を一般の人達よりも、より深く認識していた野元氏の許に日本各地からの問い合わせが殺到したのである。
これに対して、野元氏は郵便局の仕事をしながら、ロクロク寝ることもなくメールを打ち、電話を受けることに忙殺される日々が始まったのである。そこで、この「ほころび」も当初の予定を変更し、来号も野元氏特集を続けることにしたい。そして、その予告として、野元氏のメールの一部をここに紹介する。

千葉の友達に送ったメールっす!
→→→ノブ! おめえは、すごか! 男やっか! ところで、地震三日目に、おいが、送ったメールは、なんかえれえことになってしもうて、この二週間で、おいのケイタイに個人的に来たメールだけで、一千通を超えた! そいから、ツイッターやブログに使っていいですか? と、問い合わせが、あったんで、どんぞ! と言ったところ、反響が、すごかったらしく「原発とか放射能とか何もしらなかったけれど勉強するきっかけになりました!」と誉められた反面「人心の不安をあおるデマは、やめた方が、いい!」と、お叱りも負けないくらい、来たらしい!(おいは、甲野先生のブログやツイッターは見るが、自分自身では、うっとおしくなりそうなのと、基本的には、インターネットは、嫌いなので、やっとらん! ただし、超エキスパートの知り合いが、けっこう、いるので、かなり信頼のおける情報が、直接入ってくる! インターネットば、見せてもろたばってん、ありゃ、楽観論、悲観論、共に極端すぎる!)

しかし、バカ野郎、脅しやがって! と笑い者になれば、よかったばってん、最悪の事態は、現実味をおびてきた! 儲けしか考えとらん東電幹部(現場作業員を除く!)金融を握られていて、批判できないマスコミ(特にテレビ!)と政治家! モンスターとも呼ばれている闇の機関、原子力保安院と原子力安全委員会! 奴らに金で、飼われているドブネズミ以下の科学者と解説者(あえて、名前は、出さんけど、見てりゃ直感でわかるやろ! それにしても放射線のシーベルト単位を時間と年間許容量で、ごまかしたり(8760倍ちがう!)ベクレルも1リットルと1CCでごまかすし、「ただちに健康に影響が、あるわけでは、ございません。」って、10年先を言わんかい! 最初は、「外部に放射能が、漏れることは、ありません!」と言ってたよな! 今日にいたっては、放射能は、海で希釈されます。だとよ! 拡散されます! と言わんかい! はては、ジーボーグ博士が、あまりにも危険な物質だと、冥界の魔王プルートから名づけた、プルトニウムの土壌検出に核実験を引き合いに出しやがった!(隠蔽しなかったのだけは、評価するが、以前から検出していたのを、さすがにかくせなくなったのが、真相!)他にも掃いて捨てるほどあるが、嘘をつくならつくで、子供だましは、やめんかい!(しかし、こいつらが、ずる賢くて、狡猾で頭の切れる極悪人なら、ある意味、まだ安心できるんだが、本当に、ただの思考停止したバカっちゅうのが、恐ろしか! あーっ、クソどもが!)

もちろん、長崎大学の山下教授をはじめとする、まともな学者やマスコミ人もたくさんいる! しかし、まともな事を言うと外される!)でも世の中捨てたもんでなかばい! と思う事も! フクシマ50(今は、増えた!)の英雄のみなさん!「おいも連休の時に手伝い行こうかいな!」となにげに言うたら家族は、パニックになり、日頃、ボーッとしとる次女のサヤが、「お父さんば、ケガさしても行かせん!」と鬼気迫る顔で包丁を持って来たのには、正直ビビった! エラソーに言うたところで、おいなんぞ、ただのヘタレたい! 作業員、自衛隊、消防士の方々や家族の思いは、想像を絶するやろ! 英雄扱いするのは、危険と言った奴が、四人ほどいたが、現場に行ってから言え! と、さすがにブチ切れた! そいから自らも被災してるボランティアの人達や外国からの助っ人や義援金(特にアフガニスタンからの、申し訳ない! これだけしかできませんでした! と言う四百万円の義援金には、泣けた! 国情を考えたら四十億円に値する! マジで!)そいから、ひょんな縁で日頃ダニ扱いのスクープ雑誌の記者と話をする機会が、あったのだが、「今まで、あんた達は、一番嫌いな人種やったが、ヘタレマスコミばかりの中において、あんた達の中に本物のジャーナリスト魂を見せてもろた! 今では、尊敬してます! 頑張ってください!」と言ったら涙声になって「ありがとうございます! やりますよ!」と言われた! マジで尊敬に変わった!

ところで、おいが、なんで、これほどまでに原発や核兵器に対して(農薬もやけど! しかし、放射能は、桁が、違う!)強烈な嫌悪感を持っているかと言うと、重複するが、昔、タービン部門ながらも玄海原発にいた時に、反対派への嫌がらせ等、やつらの汚さを実感として感じたのと、長崎の原爆の風下地区被爆者の方々の裁判を支援していたのが、大きい!(ちょうど、一号機が、爆発した日に被爆者代表の方から、「国は、また上告するかもしれませんが、裁判に勝つことが、できました、野元さんに描いていただいた二枚の被爆絵が、大きな力となりました、ありがとうございます!」と礼を言われた矢先の爆発やもんなーっ! ガッカリ!)それにしても佐世保にいても不安でたまらんのに、おめえも含め、関東、東北の人のストレスは、ハンパじやなかやろ! じゃが、起こっちまったもんは、しゃーなか! 責任の一旦は、電気を使う我々自身にもあるわけやから、なんか考えにゃ!

甲野先生から聞いた話で、こんな話が、ある! タイタニック号沈没の時、海に投げ出された者は、45分以内に全部死んでしまったが、北朝鮮からの脱北者が、気温、水温などが、全く同じ条件で、なんと、4時間以上の漂流に耐えた例が、あるらしい! つまり、この冷たさのおかげで、敵兵に見つけられずに済む! と思ったかららしい! より過酷な条件になると人間は、逆に生命力が、増すものらしい! しかし、地震、津波、原発事故の三重苦より酷い事態なんてあるものやろうか? しいて言えば、核攻撃やろね! サバイバルの本も対凶悪犯とか、対テロリストとか地震、台風、水害、雪崩や海や山で遭難した時の対処法の本は、たくさんあるが、さすがに、対核兵器(放射能)に関しては、「こればかりは、どうしようも無いので、日頃から反核と反原発運動をしましょう!」と書いてあるだけで、あっしが、知る限りは、載っとらん、(インターネットには、捜せば、あるかもしれんが!)でもあったーっ!! 30年前に光文社より発行された「米軍サバイバルマニュアル」たい! 後遺症については、載っとらんが、何かの参考になれば!〈〉内は、おいの補足!→→→『米軍サバイバル・マニュアル』(光文社文庫)より抜粋、要約

核兵器が使用されたときは、残留放射能の影響から身を守ることが、さしあたって最も緊急かつ重要な課題。残留放射能は致死性を秘めているので、避難場についたらすぐ対処しなければならない。

1.シェルター
ガンマ線の浸透を防ぐ最も効果的な手段はシェルターの利用。まず、あまり手を加えなくてもいいような天然のシェルターを探すこと。避難場についたらすぐ(五分以内)に、シェルターをみつけること。理想的な天然のシェルターとしては洞穴、岩棚、深い隘路、大型の倒木などがある。

1-1遮蔽物(シールディング)
周辺の遮蔽物を利用してシェルターを効果的にする。地面を掃いてから腹ばいになり、タコツボを掘って土をまわりに積み上げる。屋根は身近に材料があって、作業のために全身を露出する時間が長くならぬときにだけ取りつけるようにする。完璧な遮蔽効果はないが、パラシュートで覆うと、粒子のシェルター内侵入を防ぐことができる。この場合、たびたび覆いに積もった粒子を、はらい落とすよう心掛けること。
湿気が多いときや、永久氷結土では、地表に芝生のブロックを積みシェルターを築くといい。
四方と天井をかこむばあい、スカイシャイン(地上の放射線降下物から発した放射線から生ずる大気の微分子により拡散される放射線)から身をまもるには、使用材料に応じて次の厚みが必要。ただし、下記を少々下回っても助かる見込みはある。

鋼材 15cm
土砂 90cm
岩石 60cm
氷 150cm
コンクリート 60cm
雪 600cm

〈こいは、核爆発の場合、強力なガンマ線や中性子が、発生するからたい! ここらへんは、最悪の場合でも原発から10キロも離れていれば、大丈夫!〉
シェルターに入ったら、できるたけ居心地がよくなるように工夫する。休養して放射能の被ばくから回復するためには、できるだけ居住性をよくする必要があるのだ。この場合、できるだけ暖かく乾燥させることがたいせつ。
パラシュートは絶縁材になるので、よく付着物をはらい落とすか水洗いをして使うようにする。

1-2.放射能の危険の減衰
放射能の危険は、新たな爆発で汚染が追加されない限り比較的に早く去る。最大汚染時から七時間後の危険率は、10分の1となる。同49時間後、危険率は100分の1になる。最大汚染時から二週間後、危険率は1,000分の1になる。〈そいから、放射線の強さは、距離の二乗に反比例する! つまり距離が、10倍になれば、100分の1距離が、100倍になれば10000の1になる! 覚えとけよ!〉もし新たな汚染が生じた場合、最新の爆発による汚染の危険率低下を待たなければならない。最後の核爆発と見当をつけたときから最低200時間、できればそれ以上シェルターにとどまるようにする。絶対に水を必要としたときを除いて、シェルターから出てはならない。シェルターにはカモフラージュをほどこして、自分の位置を知られるような動きは最小限度にとどめる。

2.食料と水
加工食品は容器さえしっかりしていれば中身を食べても安全。放射能汚染地域で捕獲した動物も、食料として役立つ〈こりゃ、とにかく、そこを脱出して報告の義務が、ある兵士のことで究極での話たい! 基本的には、食うな!〉。ただし動物は、注意深く皮を剥いで心臓、肝臓、腎臓を除去する。動物の体内の放射能は骨格に多く見出されているので、骨のまわりの肉は食べないように気をつける。
植物は一般的に食べても安全。なかでも、地中の食用部分は最適。次に安全なのは、表面がなめらかでよく洗えるもの。表面が荒くて洗いにくいものも、最終的には食用となる。種類が、わからない植物は皮をむいて以下のテストをしてみる。

(1)第一に、試食をしないで見慣れぬ植物をいきなり大量に食べたりしない。
(2)まずティー・スプーン一杯の量を口に約5分間含んでみる。
(3)刺激や不快さがなければ、のみくだして8時間様子を見る。
(4)吐き気、けいれん、下痢などがなければ、一握り食べて8時間待つ。
(5)それでも異常がなければ、その植物は食用になると判断してよい。

放射性降下物に覆われた地区内の溜り水は、有害な粒子を含んでいるかもしれない。いちばん飲料水に適しているのは、地下水(湧き水、有蓋井戸など)だ。次は他の水源(湖、池、河川など)の水で、同水源から約30cm離れたところに穴を掘ってフィルターにすることができる。この穴にしみ出てきた水を溜めて飲料水にするわけだ。この水は濁っていたり汚水だったりするが、しばらくすると泥などが沈殿するので上澄みをすくうことができる。が、飲む前に殺菌するよう心掛ける。〈放射性ヨウ素は、水溶性で浄水器の効果は、疑問視する学者もいるが、おいは、微粒子を取り除くことが、できるので効果は、あると思う! 少なくとも使わないより遥かにまし!〉

3.衣類と装備

衣類は、帽子や手袋を含み着用したままにして、脱いではならない。これは皮膚を露出するとベータ線の傷害をうけるので、その予防措置のためだ。衣類や装備の付着物は、よくはらい落とす。衣類の放射線粒子は、水で洗い流すことができる。

3-1.保健
皮膚の露出部分は、塵埃を洗い落とすと火傷を防ぐことができる。できるだけ暖かく乾燥させておく。
もし火傷の症状が出たら、患部を洗って通常の火傷の手当てをする。〈こいも学者によっては、放射性のチリは、危険度が、花粉や酸性雨などとは、比較の対象にならない! そのような事は、無意味だ! と言ってるが、あっしは、そうは、思わん! 室内に持ち込むホコリが、半分になれば、リスクも半分になると思う!〉
あっ、添えつけは、甲野先生のツイッターよりパクった! まだまだ伝えたいことの百分の一も言いきらんが! また伝えるたい! ノブ! 頑張ろうで!

アホ野元!

野元氏が原発勤務当時、原発の安全性を原発で働く作業員にも知らせるために派遣されてきた専門家に対して、野元氏が立て続けに様々な緊急事態(たとえば、実際に火力発電所で起こった事であるが、冷却水の取水口スクリーンに、異常発生したミズクラゲの大群が押し寄せてきて取水が困難になった場合、原子炉の冷却は、どうなるのか?などなど…)を挙げて、その対応を質問したところ、その専門家達は答えにつまって、お互い顔を見合わせて苦りきっていたそうである。
そういう時に、質問者に疑念を抱かせるような事なく、懇切に淀みなく答えられてこそ安全安心を実感させられると思うのだが、「とにかく安全」を強調するのみでは説得力がないと言わざるを得ない。「とにかく安全」が如何にいい加減なものであったかは、今回の福島第一原子力発電所の事故が明白に証明しているのであるから。

第13回

 今回の「ほころび」も前回に続き、佐世保のユニークな郵便局員で自称「アホ野元」こと野元浩二氏について紹介したい。野元氏が実は賢い「アホ」な人であることは、すでに前回も述べたが、ここで、まず野元浩二氏が6年前、私と初めて出会った時、どのような印象を持たれたのか、その時の印象とその後の展開について野元氏から私に送って頂いたメール(例によって携帯電話で打たれた)があるので(私としてはいささか面映いところもあるので、それをかなり省いて)、ここに引用させて頂くことにする。

あれは、忘れもしない平成16年の2月8日(日曜)の晴れた日やったです、甲野先生が、佐世保の武道館に来られたのですが、あの技を受けた時の衝撃…!それから、甲野先生の誰に対しても(……中略……)世の中には、こんな人が、いるんだ!と、感激しました!あれから6年たつのでやんすね!甲野先生との出会いは、あっしの人生で最大の出来事で人生が、それ以前、それ以後!に分かれます!(おーっと!嫁さんとの出会いも、そうって言うとかんば、ヤバか!)話せば長くなるんで、ここでは、省きますが、あの時期、人からは、そう見えなくとも、人生いろいろ悩んでいたのですが、それらが、暗雲が、霧散して青空が、広がるような感覚が、起こり、現実にもそうなったんすよ!理屈抜きで不思議でした!きっかけを作ってくれた、嫁さんと平田先生には、ほんと感謝です!あれから縁が、広がり、たくさんの素晴らしい人達と出会い、ほんと、ありがたいことです!あっしも甲野一家の端っこに加えていただき、世の中をひっくり返す事に少しでも役に立てるんなら、こんな楽しく面白いことは、ありやせんぜ!これから、益々面白くなりそうっすよ!

アホ野元!

 こうして野元氏は私にひとかたならぬ思い入れをもたれたようだが、元々物づくりの好きな人物なだけに、私が今年の11月福岡県の糸島の「懐庵」(この「ほころび」の第8回目に紹介した数学者の森田真生氏の数学道場で、この土地建物の所有者である飯野史朗氏の好意で提供されている大きな椎の木等に囲まれている素晴らしい場所、この「懐庵」の道場開きの様子は私のサイトである松聲館のホームページの随感録に書いたので、このウエッブマガジンから松聲館のホームページに飛び、いま紹介した2010年7月25日付の随感録を御覧頂きたい)で行なった物づくりの原点とも言える鍛冶仕事、それも極力簡単な身の回りのもので出来る、いわば非常時のサバイバル鍛冶仕事の講習会に多大な関心を持たれ、私の要請で忙しいなかアシスタントとして参加されたのである。次に紹介する野元氏のメールは、その時の感動を野元氏が知友諸氏にメールされた時のものである。

おとといの11月27日(土曜)13時より福岡県糸島の数学道場、懐庵で甲野先生指導のもと、サバイバル鍛冶仕事をやったんすが、めちゃくちゃ面白かったっす!(ただし、こりゃ、ハマる人とそうでない人が、ハッキリ別れますなーっ!まあ、なんでもそうですが!)今まで、鍛冶仕事をするためには、相当の設備投資費が、かかると思ってたんでやんすが、意外や意外、ほとんど、お金は、いらないんすよ!極端に言えば鉄屑だけあればなんとかなるかもしれやせん!(ただし、実際にやったことが、あるっちゅうのが前提で、本やインターネットの知識だけでは、まず、不可能でやんすが!)講習が、始まって甲野先生が、真っ先にやったことは、鉈を手に取り、竹林に忍者みたいに走っていって、竹をぶった切って来られたっす!その竹を一節切り取ったかと思うと四ツ割りに!更に片側にから3センチ位のところに手裏剣で5ミリ位の穴を開け出されたんでやんすが、参加者全員、顔を見合わせ、???の連続!(最初、参加者は、大人13人プラス子供3人だったのですが、後で、またまた、いろんな人が、来やした!)この後、竹の一節分のパイプを作り、更に竹ベラで地面に深さ10センチ、直径20センチ位の穴を掘り、そこから20センチ位離れたところにさっき作った不思議な竹板を打ち込み、その竹の5ミリ位の穴にくっつける用にして地面に掘った穴との間に竹パイプを埋めた後自転車用の空気入れを!それから地面に掘った穴に木炭を入れ火をつければ、なるほど!簡易フイゴ式の炉だーっ!素晴らしい!(この後は、人数も多いことやし、大出力のブロワーでやったんですが、威力が、ありすぎて使い辛く、ヘアドライヤーに取り替え、冷風弱で十二分でやんした!)それさえも無い場合は、ウチワでもOKとのこと!まあ、現実的に家の庭でやる場合は、(2畳くらいの面積が、あれば、OKみたいですが、くれぐれも鍛冶ならぬ火事には、注意!焼き入れにも使うし、バケツに入れた水は、絶対必需品!)980円の安物のドライヤー(意外や意外、高級ドライヤーは、風量が、多過ぎて使いにくいので安物が、いいっす!)内径が、10円玉位で長さ50センチ位の鉄パイプ(短すぎると輻射熱でドライヤーが、溶けそーっ!ボロ物干し竿をたたっ切った奴で十分!)と木炭(これまた、ビンチョウ炭などの高級木炭よりも安物や消し炭の方が、向いているってのがいいっすね!3センチ角位に砕いて使いやす、酸素供給条件的に、デカすぎても小さすぎてもダメらしいっす!)、ひらべったい石(できれば金床!無理なら、なんか、でかい鉄の固まりが、あれば、ベスト!)、ハンマー(1、5キロ前後!ホームセンターで千円位!)、平タガネ(切り離すのに使う、ホームセンターで五百円くらい)!ヤットコ(大きめのプライヤーでもOK!)、軍手、保護眼鏡、重複しやすが、バケツと水、そいから鉄材は、最初は、太さが、1から、1、5センチ、長さは、50センチちょいの鉄筋が、いいでやんしょう!(これまた、面白いことに新品では、なくとも、捨ててあるような、どんなに、ボロボロに錆びた奴でも鍛造すると全く問題無いっちゅうのが、素敵ですな!まるで不死鳥が、蘇るごたる!)!と、まあ、不燃物の日にでも捜せば、ほとんど金は、かけずにそろえられるものばかり(あと電気サンダーなんかあると便利ですが、あまり道具が、そろいすぎると面白くない!甲野先生なんか、ヤットコとかも自作しておられますからね!ほんと、凝り性ーっ!)とまあ、道具は、意外と簡単に揃いやす!しかし、実際に鍛冶仕事をやってみたら、果てしなく奥が、深いっす!火加減から材質、叩き方(まず、四角にならずに菱形になっちまいますし、ゆっくり叩くとすぐに冷えてしまい加工できなくなるっす!甲野先生が、やると衝撃熱が、発生するため、冷えにくいのは、さすがっす!そいから、初心者が、叩きすぎるとヒビが、入って折れちまうし、めちゃくちゃ難しいんですが、だからこそ、めちゃくちゃ面白
い!)から、焼き入れ、焼きなまし、などなど、まさに無限に、やり方やコツが、あるみたいで、とても、メール文では、伝えきれまっしぇーん!百聞は、一見にしかず!百見は、一行にしかず!で、実際、見て体験するしかないっす!手裏剣や釘抜き(若い兄ちゃんのアイディアだったんすが、グーですね!)を作ったりしてるうちにまたたく間に時間は、すぎ、懐庵の近くの平尾さんのプロを遥かに凌駕する超美味い料理に舌鼓を打ち、その後、恒例の武術二次会!毎回、技が、より効くように進化して行く甲野先生は、ほんとすげえんですが、ほとんど進歩しねえ自分に腹が、立ちやすなあーっ!そいから、今回、マユ(註:野元氏の三女で小学校3年生の麻有ちゃんの事)も甲野先生に会いたい!と付いてきたんでやんすが、鍛冶は、面白いわ、懐庵の地主の飯野さんには、すっかりなついて、一緒にイモ掘りには、行くわ!甲野先生には、参加者の下妻さん夫婦の息子さんの彦太君共々遊んでもらうわ!で大満足の様子!ずっとハイ状態で、帰りの車も楽しかったっす!そいから、昨日は、昼間のたくさんの用事を片っ端から済ませ、夜に早速、炉を作り、マユとトンテンカン(あっしの場合は、トンチンカンか!)やりだしたら、嫁さんも、お姉ちゃん二人も面白そうだってんで全員やることになっちまいやした!(なんて単純な家族でやんしょ!)この面白さは、自分で物を造る喜びと、下手したら大ヤケドの恐れが、ある緊張感の対比から来てやすね!
さあ、明日は、坂本龍一さん(註:ミュージシャンの坂本龍一氏で、ネオニコチノイド系農薬使用に反対するミツバチたすけ隊の活動に支援して下さっている縁)に会いに行きますばい!
アホ野元!

 いま引用したメールにもあったように、野元氏はこの鍛冶仕事によほどハマッたようで、暮れでひどく忙しいというのに、自宅に早速簡単な鍛冶場を作って鍛造を始められたらしい。その時の様子を万年少年である野元氏は次のような私宛のメールを送って来られた。

今日の用事を済ませ、日も沈んだ6時から早速、ボロのドライヤーとボロ物干し竿をたたっ切ったパイプで炉を作り、マユと鍛冶仕事を始めて3時間!このクソ忙しい時期にこれ以上ハマったらヤバイ!と思いつつ、湧いてくる好奇心は、どうすることもできないっす!甲野先生は、ほんと人のツボが、よう、わかっとらすばい!


アホ野元!

何度読んでも、この野元氏の好奇心のかたまりのような、少年の情熱を失っていない純粋さには心打たれる。このメール文を読めば、野元氏の人柄も自ずと分かると思うが、さらに野元氏像を明らかにする、いかにも野元氏らしいエピソードをいくつかここに紹介しておきたい。
 その一つは、郵便局にささいな事でクレームをつけてくる常習の人がいて、あまりといえばあまりの言いがかりに「これは一つガツンと言ってこよう」と野元氏が覚悟して、その人の家に行った所、体の不自由な人で、寒い中ストーブに灯油が入れられず震えているのを見て、いっぺんに気の毒になって、いろいろ面倒をみたところ、すっかり頼られ、クレームは止んだが、何かといえば頼みごとをされるとの事。
 また、同じようにクレームをつけてきたカタギではない人の家に行き、向こうがシャドーボクシングで盛んに示威行為をしてきた横で、「私も簡単にやられませんよ」と言って空手の型を始め、その上、焼き鈍して柔らかくしておいた十円玉を二本の指で折り曲げてみせたところ、「この野郎」が「野元さん」になり、一緒に飲もうという事になって、それからは度々「新しいカツオが手に入った。食べに来ないか」などの誘いの電話が来るそうである。
 その上、野元氏は無農薬での農業を実践。メカにも詳しく、またシーカヤックで五島列島まで行く途中で雷に遭い、いくつもの雷が至近距離に落ちて、およそ生きた心地もなかったという命がけの体験もされている。したがって、何かあった時の対応力も度胸も現代人には珍しく身についている。こういう人が子供達の教育に関わる事が出来る日が来ることを心から望まずにはいられない。

第12回

 渡辺京二先生の名著『逝きし世の面影』及び『江戸という幻景』は、ともに江戸時代末期の日本人の姿を、前書は外国人の目を通して、後書は同じ日本人の手によって書かれたものを集めて論評を加えたものだが、それによると、当時の日本人は実に人情にあふれ、世のため人のためになることを行なうことに高揚感を持っていた人物が少なからずいたらしい。例えば、『江戸という幻景』には次のようなエピソードが載っている。

橘南谿は天明二年から八年にかけて諸国を巡歴した旅行家であるが、旅先で五日十日と逗留して、その地に親しんだ人びとと別れるとき、「故郷に生れ出るより相親しみて命の限り相見る人」との別れよりもいっそう惜別の情にかられた。越後糸魚川を立ち去るときのこと。そこで知り合ったばかりの五、六人の友が見送ってくれたが、なかなか別れがたくて一里もついて来たところに小さな酒屋があった。ちょうど三月半ばのこと、さしもの北国も梅桃が咲きほこり、鶯の声もはなやかである。店のうしろの砂浜で酒を汲み、直江津から来合せたという妓女も一座に加えて歓を尽した。海の彼方に雲のように浮かぶのは佐渡である。今夜はここで泊ろうという誘いを振り切って、ひとり月夜の路をたどれば、「別れの俤、空に残」って歩みもはかどらなかったと南谿は記している。
 越前の国栗田郡の寺に滞在したときは、近所の医生六、七人が来ていろいろと医術について問うので、逗留が二十日ばかりになってしまった。南谿は京の医師であるから、先生扱いされたのである。新春も近いのでここで越年せよとすすめられたが、先を急ぐ身でそうもいかない。しかし、あまりに心をこめて仕えてくれるので断わりもしにくく、近所に用があるふりをして「ひそかに栗田郡を忍び出、新庄という所まで走り逃れて宿」をとった。あとには従者の医生を残しておいたのである。その夜従者から事情を聞いた人びとはにわかに集まって相談し、翌朝五人が早立ちして新庄で南谿をつかまえた。南谿は「驚きかつ迷惑」に感じたが、その志と親切に深く礼をのべて、何とかひきとってもらった。しかし二人はどうしても帰らない。一人は農夫で福井までついて来た。その間「昼夜途中までも他の雑談をなさず、ただひたすら物問うのみ」である。この機をおいて京の先生から物を学ぶ折はないと見極めたのである。もう一人は医師で、自分の医業が繁昌しているので、患者を友人の医師にあずけてあとを追ったもので、福井から三国、加賀の大聖寺を経て山中の温泉までついて来た。南谿と従者の荷物もかついで、「日夜ただ医事のみを問う」ありさま。その熱心さに感じて、南谿は温泉宿でいくつかの秘事を教えて彼を帰した。
 むろんこれは情愛の深さというばかりではなく、当時における知識というものの貴重さ、その貴重なものを求めるに当っての人びとの真摯さを語る挿話であるだろう。だがいずれにせよ底に流れるのは、当時の人びとの熱くて真直な心のありようである。
 南谿が備後国を通った時のことだ。道連れになった老人が南谿を京の医師と知って、「親しい家の女房がもう二年も難病を患っている。どうか診ていただけないだろうか」と懇請するので、「いとやすきこと」とうけがったのはいいが、その家というのがとんだ山の中。従僕が「程も知れぬいたずら事」と腹を立てるほどの難路だった。しかし来た甲斐あって、南谿の治療は効を奏し、女はかなり快方に向かった。今後の薬方などくわしく書き残してその家を去り、その後二年を経て京都に帰った。
 するとある日、六条の宿屋が訪ねて来て、「以前九州へおもむき給いし御医者はこなたなりや」と問う。備後の六兵衛という百姓がのぼり来たって、「下に市の字の付きたる御医者をご存知ないか。何とぞ尋ね求めてもらいたい。高恩を受けたので、御礼のために出て来たのだが、うっかりお名前を聞かず、ただ荷物の下げ札に市の字を見たのを覚えている」というので、こうして探している。見ればお宅の表札には「市」の字があるのでお尋ねするのだという次第。南谿の通り名は東市というのである。翌日六兵衛が来て、あのあと、妻のさしもの難病も平癒し、村では弘法大師がいらっしゃったのだと大評判。とにかく御礼申さずには気がすまずこうして出て参りました。もしお逢い出来ぬときは東寺へ行ってお大師様にお礼申すつもりでありましたと言う。真実面に表われて、南谿は医師冥利を感じた。

 ここに引用したような日本人は、現在はほとんど死滅している観があるが、私はこの現代にあっても、いま述べた本に登場しているような江戸期の日本人を彷彿とさせる人物と出会うことが出来た。
 その人物とは、九州は長崎県の佐世保で生まれ育ち、現在佐世保の郵便局に勤務する野元浩二氏である。野元氏と私が出会ったのは、今から6年前の2004年の2月、私が初めて佐世保で講習会を行なった時である。佐世保の講習会は、私が四国の香川や愛媛で行なった講習会に参加された平田整骨院の平田雄志院長が、私の技や考え方に深く共鳴され、是非佐世保でも講習会を行ないたい旨、私に講師を依頼された事から始まったのである。
 そして実現した佐世保での最初の講習会の当日、平田院長から「この人は郵便局の人ですが、甲野先生のナンバの体の使い方を実際に坂や階段で使って、郵便の配達が楽になったという事です」と、その日初めて野元氏を紹介されたのである。あらためて顔を見ると、年齢は40歳は越えていると思われたが、やんちゃな少年の面影を残していて、「ああ、面白そうな人だな…」というのが私の第一印象だった。
 その後、年に2回か3回ほど佐世保に行くようになったが、いつの間にか野元氏は講習会開催のスタッフとして私の迎えや見送りの時の車の運転手として参加されるようになった。しかし付き合いはその程度で、それ以上の進展はなかった。
 それが俄かに変わったのは2006年に、私が長男の陽紀を伴って佐世保の講習会に行ってからだと思う。陽紀は私よりも親切丁寧に人に接しているが、同時によく相手も観察していて、その人を観る能力には、しばしば驚かされる。その陽紀が佐世保に行って、「あの野元さんって人、いいねえ。あの人はいいわー」と、しきりに感心していた。そして野元氏からも「陽紀さんは素晴らしい。先生は来んでも陽紀さんに是非ウチに泊まってもらいたかですよー」という話が出た。
 とにかく陽紀の人物鑑定の鼻は確かで、「あの人はいいねぇー」と言って外れた事がない。その陽紀がしきりに野元氏の事を言うので、これはただならぬ人材かも知れないと思うようになった。もちろん、この陽紀の発言がなくても野元氏の真価はやがてハッキリとしたと思うが、陽紀の発言がその時期を早くしたように思う。
 やがて野元氏は、私が佐世保を訪れる時はもちろん、熊本に行く時でも運転手兼アシスタントとして欠かせぬ存在となっていったが、野元氏が人に何かを教える時、ただならぬ才能がある事に気づいたのは、2009年の6月に九州に行った時のことである。この時は佐世保から熊本への道中も、野元氏運転の車に乗せてもらい、熊本の講習会の後、熊本の講習会の世話人である加納氏の古くからの友人で、金峰山のミカン畑が拡がっているその上に大型の木工機械を据え付け、気が向いた時に何か作りながら一人暮らしをしているS氏の許に、数人で伺って一泊させてもらったのである。翌朝、野元氏が、この時大阪から参加のK女史に農業のやり方を説明している様子を観ていたのだが、都会人でまったく農業知識のないK女史に、野元氏は本当に見事に説明をされてた。あまり感心したので、その事を私のサイトの「随感録」に書いたので、ここでそれを引用させて頂きたい。

2009年6月19日(金)
 梅雨の晴れ間の木々の緑は、1年の内でも最も青々と生気を帯びている。13日の佐世保、14日の熊本での講習会に向かう途中、また終わった後、そうした木々の濃い緑を見ることは、何にもまして私にとって生きている実感が得られる。
 その上、今回初めて訪れた菊池渓谷では、朴歯を地下足袋に履き変えて、渓谷の岩から岩を跳びながら流れを渡ったりしたため、一層そうした緑の中にいる自分が感じられた。また、地下足袋を通して得られる木の根や岩角の感触は、気分の上でも良かったが、それ以上に私の足自体がそうした刺激を欲していたのだという事を、いままでになく感じ取るが出来、これは新しい気づきだった。
 それにしても、今回は様々な気づきの多い旅だった。技の上の展開も、手を使わないようにという事が、ただ使わないのではなく積極的に納刀するように、というのは、ここで書いてもあまり伝わらないだろう。……中略……
 技や身体のこと以外の気づきでは、佐世保でいつもお世話になっている世話人の平田氏のアシスタント的存在で、私を空港まで迎えたり、熊本まで送って下さる野元氏の類稀な人としての力量を、あらためて感じた事である。もっとも、"類稀な"などと表現すると、野元氏には頭から大否定をされそうだ。まあ、確かに渡辺京二先生が書かれた『逝きし世の面影』(平凡社刊)を読めば、昔の日本にはこの野元氏のような大らかでいて実地に即した農作業や機械の操作に関する知識に明るく、周囲の人達を自然と助ける人達は少なからず存在したのだと思う。しかし、残念な事に現代はそういう人が、つまり本来は子供達が最も必要とする大人が激減し稀になってしまっているのである。
 今回、熊本の山中で一泊した時、そこに同行した農業に関心を持ち始めた大阪在住の女性のK女史に、野元氏が農薬や化学肥料を使わない農法について解説されているのを横で聴いていて感嘆してしまった。野元氏は実際に苗を持参し、鋤で地面を掘り起こしながらK女史にいろいろ説明しているのだが、その例えの巧みさとユーモアには唸ってしまった。(例えば、ニンジンに関して「ニンジンは淋しがり屋やけん、間引いても葉と葉が触れるくらいにせんば、いかんとですよ」という説明などは絶品だった。-このカッコ内は今回の“ほころび”に引用する際に追加-)まあ、教わっているK女史も、これほど愛嬌のある"いい人"は滅多にいないという好人物なだけに、野元氏も一層張り切られたのだろうが、何事かを分かりやすく人に教え、人をその気にさせるという教育の原点をそこに見た気がした。この野元氏の説得力の一番の根源は、まったく押し付けがましさがない事であろう。そして、芯から自分は阿呆な人間と思い、ただ楽しいからそれをやっている、という事だろう。
 教育者が自らを阿呆な人間だと本心思うという事は至難なことだと思うが、自らを阿呆な人間だと思い、そして実は決して阿呆ではなく、その例えの出し方、注の添え方が実に適切という人間は、やはり稀(特に現代では非常に稀)であろう。とにかく教育で最も重要なことは、押し付けがましくない事だ、という事を、野元氏を見ていて本当に納得がいった。
 このような、「自分は阿呆で(実は賢い)、およそ先生なんかには向いていない」と思っているような人が、小学生を教えることが出来れば(このような人は、ただ一緒に仕事を楽しくやると考えるだけだろうが)、ずいぶん救われる子供も親も出ると思う。しかし、頭の硬い人が最も多い教育界では「木に縁って魚を求める」ような話かもしれない。それにしても、現代にこのような人が、まだ存在している事を実感できたのは幸いだった。
 野元氏は、天性の野生児、自由人の雰囲気なので、よほど世慣れた人でもその本職を当てるのは難しいらしく、いままで仕事を当てられた事がないそうだが、本職は郵便に関する仕事で、さまざまなクレーム処理などもこなしているとの事である。このような人に陽が当たり、教育の建て直しに一役も二役もかってもらいたいものだが…。
 以前、『生協の白石さん』という本が話題になったが、『郵便局の野元さん』という本を私が書きたいくらいである。そのうち、断片なりとも野元氏の語録でも発表したいと思う。ただ、あの表情と九州弁の語り口は活字ではなかなか伝わらないだろう。
 ……後略……

 この野元氏は、その後、私がCCD(蜂群崩壊症候群)によって世界中のミツバチが激減していることに非常な懸念を持って、何とかしたいと思っていた事から拡がったニホンミツバチとの縁(これも不思議なことに平田雄志院長がニホンミチバチに大変詳しい久志冨士男先生が佐世保在住である事を知って、私や野元氏に縁を繋ぎ、野元氏は久志先生の一番弟子のような存在となったのである)によって、ニホンミツバチを飼い始め、さらに如何にも野元氏の面目躍如としたエピソードが生れつつある。
 この連載も今回は異例の長さになってしまったが、今回、野元浩二氏紹介の最後に、最近野元氏から寄せられたメールで、私が私のサイト「随感録」の中で引用紹介したものを、再度ここに引用して今回は終わりにしたい。なお、次回もこの「ほころび」で出来れば野元氏の紹介続けたいと思っている。

2010年9月9日(木)
 以前、この随感録でも(2009年6月19日付けで、小学生をこういう人が教えたらずいぶん救われる小学生や親が出るのではないか…)と紹介した事のある佐世保の郵便局員、野元浩二氏は、いままで誰一人として職業を当てた人がいないというユニークな人物。(かの桜井章一雀鬼会会長も、野元氏はプータローと思われていたようだ)私も、この野元氏にどれだけ助けられたか分からない。ただ、渡辺京二先生の『逝きし世の面影』を読むと、昔の日本には野元氏のような人物が全国至るところにいたらしく、そういう点ではきわめて郷愁を誘われる人物でもある。 自称「アホ野元」の野元氏だが、メカには強く、独特の無農薬農法、そしてニホンミツバチに関しては、『我が家にミツバチがやって来た』の著者でニホンミツバチに大変詳しい久志富士男先生の一番弟子の観のある熱血漢。
 その野元氏からは、よく野元氏の人柄そのままのユニークなメールが届くのですが、今回届いたメールはいろいろな意味で一人あるいは知人間だけで読むのはあまりに勿体無い気がしましたので、野元氏の了解を得てここに全文を紹介する事にしました。日本には、まだこのような人がいる事で励まされる方やホッとされる方があると思います。
 文中で「マユ」とあるのは、野元氏の三女で小学3年生の麻有ちゃん。麻有ちゃんは分蜂したニホンミツバチの群に頬ずりして、ニホンミツバチが対応さえ間違えなければ、いかに人と共存出来るかを印象づけた映像を残していて、次回の採蜜を行なう予定との事です。「平田先生」とは、私の佐世保の講習会の世話人で、平田整骨院院長。とにかく人の喜ぶ顔を見るのが生き甲斐という好人物です。また、「火事場の馬鹿器用」というのは、来月新潮社から文庫本として新しく刊行される予定の『響きあう脳と身体』(茂木健一郎氏との共著)の中で、私が使った表現です。では「実は賢い、自称『アホ野元』」野元浩二氏からのユニークメールをどうぞ!
 これを全部携帯で打っているとの事ですから、それにも驚かされます。

 本に「火事場の馬鹿力」と共に「火事場の馬鹿器用」の話が、載ってましたが、それに似た「火事場の馬鹿閃き」っちゅうのを体験しました!夕方、家の前の畑の草取りをやっていたら、マユのクラスの子が、二人、遊びに来たんで、こりゃ、ちょうどいいや!と、引っこ抜いて干しておいた草を一カ所に集め燃やしてから肥料を作る作業を手伝わせたら、三人とも、よほど楽しかったらしく、キャッ、キャッ♪喜んで、手伝ってくれやした!赤トンボも飛んでいて、そんな童謡みたいな、のどかな、ひと時が、一転!エンジン音が、して、ハッ!と気付いたら、家の近くの水田で農薬を動力噴霧器で散布しだして霧状の固まりが、ジワジワとこちらに向かって来てるじゃあないですか!「わっ!ヤバい、こっちに来たらハチが、全滅する!」と思いミツバチの巣箱へ!マユは、「ハチさんが、死んじゃう!お父さん助けて!」と泣き叫ぶし、とにかく、どうにかしなけりゃ!と直線距離だと二百メートルくらいなんすが、川をはさんで道路が、迂回していて五百メートルくらいあるんで、モトクロスバイクに飛び乗ってノーヘルのまんま散布してるところへ全開で、ぶっ飛ばして行きました!(この時のスピードは、絶対、レースの時より速かったです!)現場へ着いてから、散布してる人にハチの説明をして、「おいには、農薬をまくな!って権利は、なかばってん、少なくとも、おいん家が、風下の時は、農薬をまかんで、そいから、ネオニコチノイド系のダントツだけは、使わんで!」と言ったら、わかってくれたんで(前にも説明していたのですが、まだ、ピンと来ていなかったみたいで、ぶん殴りたい衝動に駆られていたんですが、その人、近所の人で、すごく情のあるいい人で、いつも、お世話になっているし、いざって時は、助けてくれるし、心が、葛藤しました!)そいから農薬の袋を見せてもらい、種類の特定を!幸い、最悪のネオニコチノイド系では、なく、殺虫剤は、ピレステロイド系、それとイモチ病の消毒剤との混合農薬の粉剤でした(水溶剤より、比重が重く、浮遊する時間は、短い!と言っても30分位は、ただよってますが!)!そいから、また家まで、バイクをぶっ飛ばし、久志先生に電話して、農薬にやられる時のハチの様子は、どうなるのか聞いたら、「なに!そりゃ、大変だ!農薬が、飛んで来たら、落ち着きが、無くなり、入口付近にたくさんの隊列を組んで巣の中に農薬が、入らないように、必死で羽根で扇ぎます!でも次々に力尽きて死んでいきます!」との説明!その悲惨な事態を想像したら、怒りと悲しみで、マユだけでなく、あっしまで、涙が、でてきました!そいから、あっしと嫁さんとマユ(クラスの子は、お母さんが、迎えに来て帰った!)の三人で、(お姉ちゃん二人は、部活でいない!)少しでも農薬を拡散させるために、巣箱の門を横方向から必死にうちわで扇いでいたのですが、ピンとアイディアが、閃いて、扇風機を持ち出し設置!(この時の作業の、素早いこと!いつも、これなら、仕事も、凄いことになるんでしょうが、危機が、迫らない限りありえないっす!)これで、少しは、ましやろうけど、所詮は、巣箱内に農薬に汚染された空気が、入るな!と感じました!そしたら、更にアイディアが、閃き、そうだ!エアコンプレッサーの吸入口に活性炭のフィルターをつけてゴムホースで、巣箱内に空気を送れば、巣箱内から外に向けて空気が、流れるわけでやんすから、それが、バリヤーになり巣箱内のハチは、助かるな!と確信!しかし、もう時間が、無い!いよいよ家に放射能雲ならぬ農薬雲が、届こうとしたとき、不思議な事に風向きが、サーッと変わって、農薬雲が、向こうに去っていくじゃないですか!ほんと、アニメか、パニック映画みたいに、まさに危機一髪!ギリギリ、助かりました!これは、絶対、あっしに取り付いてる?精霊のおかげですよ!感謝します!そうこう しているうちに、久志先生と養蜂業者の方が、心配して駆け付けてくれました!久志先生にこの時閃いたアイディアを話したら、「おおっ、それは、素晴らしい発明だ!特許を取れるかもしれませんよ!」と言っていただきやしたので、山の中でも使えるようにバッテリー方式にしたり、エア流量やコンプレッサーオイルのエア混入を防いだり、と解決しなければ、ならない問題もありますんで試作品を作ってみます!もちろん、これは、苦肉の策で、こんなものいらない環境を目指したいのですが、近所の人をはじめ、つくづく、農協の農薬神話の刷り込みは強いので、無農薬への道は、困難と時間が、伴います!それまでの対症療法としては、いけると思います!甲野先生が、言い出しっぺで、平田先生を通じて久志先生と知り合い、こうしてミツバチと生活を共にすることになったわけですが、(近頃じゃ、オオスズメバチも!)他の地区では、ほとんど絶滅状態です!かわいい、こいつらを絶対に守ってやります!あっ、忙しい時に、しょーもないメール、すみませんでした!
アホ野元!

甲野善紀(こうのよしのり)
1949年、東京に生まれる。1978年、武術の研究を専門とするため松聲館(しょうせいかん)を設立。以来、他流儀や異分野との交流を通して、現在では失われた精妙な古伝の術理を探求しつつ、武術の研究を行っている。著書も多数。
http://www.shouseikan.com/

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