「このへん、なにもないでしょ?」
そう言って案内してくれた地元の人が、次の瞬間、
「でもここ、昔は川遊びがすごかったんよ」と目を細めて笑った。
四国を歩いていると、こういう場面によく出会う。
たしかに、観光地としては“映え”ないかもしれない。
けれど、そこにはたしかに「暮らしの手ざわり」がある。
高知の朝は、新聞とともに
高知県では、今もなお地元新聞「高知新聞」の購読率が高い。
スーパーのチラシも、漁協の情報も、冠婚葬祭もそこに載っている。
つまり、紙面はそのまま「地域の記憶」になっている。
東京でニュースを見るとき、「何が起きたか」を知る。
高知で新聞を開くとき、「誰がそこにいるか」を知る。
情報の質も、流れ方も、まるで違う。
それは編集者にとって、とても豊かな素材だ。
「撮る」ではなく「残す」という視点
四国には、派手さはないかもしれない。
でも、例えば徳島の阿波踊りのように、「ただ続けてきたこと」が誇りになる文化がある。
編集という行為もまた、似ている。
誰かがカメラを向けなければ、忘れられてしまう風景がある。
誰かが言葉にしなければ、消えてしまう声がある。
編集者は、記録者であり、記憶の守り人だ。
香川のうどん屋で知る“地元力”
香川県を歩けば、早朝6時から開いているうどん屋に出くわす。
観光客がいない時間でも、近所の人でにぎわっている。
ここにあるのは、「地元の人が“自分のため”に通う場所」。
チェーンでもなく、SNSでもない、“生活の中に根付いた文化”だ。
こういう日常こそ、メディアに乗りづらい。
でも、だからこそローカルの編集者が「伝える意義」がある。
愛媛の方言と、やさしさ
愛媛の取材で聞いた話がある。
インタビューの終わり、取材対象のご婦人がこう言った。
「変なことばっかり話してしもたけん、書かんといてよ〜」
それは照れ隠しの言葉だったけれど、
むしろそこに“この町のやさしさ”が詰まっていた。
編集者は、ただ情報を集める人ではない。
相手の空気を読み、余白ごと伝える仕事でもある。
ローカルは「弱さ」を描いていい
都市の編集は、基本的に“強さ”を描く。
成功、話題性、成長──そういう言葉が並ぶ。
でも四国のローカル編集は、もっと違っていていい。
「消えそうなもの」や「続けられるか分からないこと」も、ちゃんと描いて残していい。
むしろ、そういう“弱さ”の中に、人は親しみや価値を見出すことがある。
おわりに:四国で編集をするということ
四国には、まだまだ“語られていない日常”がたくさんある。
それは目立たないし、急にバズるようなものではない。
でも確かに、誰かの人生の一部になっている。
「この道、子どものころ、毎日通ったわ」
「この家、今は空き家だけど、昔は花火大会の特等席やった」
そういう記憶を、言葉や写真でそっと残していく。
編集とは、未来に向けた「小さな記録作業」なのかもしれない。
そして、四国のような土地だからこそ、その営みには意味がある。